対外関係

618年、隋に代わって中国を統一した唐は大帝国を築き、東アジアに広大な領域を支配して周辺諸地域に大きな影響をあたえた。西アジアや中央アジアなどとの交流も活発であり、首都長安は国際都市として繁栄した。玄宗の治世前半は「開元の治」と称された。周辺諸国も唐と通交して漢字・儒教・漢訳仏教などの諸文化を共有して、東アジア文化圏が形成された。

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東夷の小帝国

その中にあって日本の律令国家体制では、天皇は中国の皇帝と並ぶものであり、唐と同様、日本を中華と する帝国構造を有していた。それは国家の統治権が及ぶ範囲を「化内」、それが及ばない外部を「化外」と区別すると、さらに化外を区分して唐を「隣国」、朝 鮮諸国(この時代には新羅と渤海)を「諸蕃」、蝦夷・隼人・南島人を「夷狄」と規定する「東夷の小帝国」と呼ぶべきものであった。律令に規定後、それを自負したり目指したことと、とりわけ唐や朝鮮諸国との関係に実態がともなったかどうかは別の問題である。

630年の犬上御田鍬にはじまる日本からの遣唐使は、奈良時代にはほぼ20年に1度の頻度で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には、留学生や学問僧なども加わり、多いときには約500人におよぶ人びとが4隻の船に乗って渡海した。日本は唐の冊封は受けなかったものの、実質的には唐に臣従する朝貢国の扱いであった。使者は正月の朝賀に参列すると、皇帝を祝賀した。当時の造船術や航海術はなお未熟な点も多く、海上での遭難も少なくなかった。危険を冒して遣唐使たちは、多くの書籍やあるいはすぐれた織物や銀器・陶器・楽器な どを数多く持ち帰り、また、唐の先進的な政治制度や国際色豊富な文化を持ち帰り、当時の日本に多大な影響をあたえた。中でも知識に対する貪欲さはすさまじ く、皇帝から下賜された品々を売り払って、その代価ですべて書籍を購入して積み帰ったと唐の正史に記されるほどであった。文物だけでなく、知識を身につけた留学生や留学僧も日本に戻って指導的な役割を果たしている。とくに、帰国した吉備真備や玄昉は、後に聖武天皇に重用され、政治の世界でも活躍した。

新羅

美しい日本がみつかります

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白村江の戦いののち朝鮮半島を統一した新羅と の間にも多くの使節が往来した。ところが、7世紀末から8世紀代の日本は(唐を「隣国」、新羅・渤海を「蕃国」とする)律令体制を築く過程で、中華意識を 高めており、新羅を「蕃国」として位置づけ、従属国として扱おうとしたため、度々衝突が起きた(田村圓澄)。これにより、遣唐使のルートも幾度か変更され ている。新羅は、半島統一を巡って唐と戦争中であり、背後の日本が唐側に着かないように唐を牽制するため使節を送り続けていた。唐と交戦している状況であったため8世紀初頭までは日本側の朝貢形式を容認していたが、渤海の成立後に唐との関係が好転した新羅は、朝貢してまで日本との関係を維持する必要がなくなったため、対等外交を主張するようになった。日本はこれを認めなかった。両国の関係悪化が具体化すると、新羅は日本の侵攻に備えて築城(723年、毛伐郡城)する。日本でも一時軍備強化のため節度使が置かれた。737年には新羅征討が議論に上った。この時期に日本では天然痘が大流行しており、政治の中心人物であった藤原武智麻呂をはじめとする藤原四兄弟、高位貴族が相次いで没して政治を行える人材が激減、国内が混乱に陥ったため、現実のものとはならなかった。 755年、安史の乱が起こり唐で混乱が生じると、新羅に脅威を抱く渤海との関係強化を 背景に藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備している(渤海との共同作戦を大前提にしていたが、渤海側に拒否されたため、開戦は延期されつづけ、最終的には 仲麻呂の没落によりやはり実現しなかった)。このように衝突には至らなかったが、日本側の要求に応じてまで国交を維持する必要のなくなった新羅は使節の派 遣を止め、779年を最後に途絶えることとなった。

上記のような説には異論が出されている。新羅は日本側の臣称・上表形式の国書を送るようにとの要求に対して、国交が断絶する最後まで、新羅王の国書 自体を一回も送らなかった。新羅が唐の圧力を受けている間は、「新羅の使節」は日本への朝貢形式を容認していたが、八世紀中葉以降日本の朝貢要求を拒否す るようになる。新羅王が日本に一度も国書を送っておらず、そもそも新羅が日本の朝貢体制を認めていたか疑問であり、新羅の使節が現地で誤魔化したのかもし れない(堀敏一)。また、川本芳昭は新羅が中国皇帝にしか許されない建元を日本より100年以上早く行うなど、その中華意識から考えて、上記のような説に は一定の問題があるとしている。 こうした一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きく、現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には新羅商人が仲介したものが少なくないとされている。8世紀末になると遣新羅使の正式派遣は途絶えたが、新羅商人の活動はむしろ活発化している。

渤海

713年、靺鞨族が主体となって旧高句麗人(狛族)と共に中国東北部に建国した渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅の対抗上727年(神亀4年)に日本に渤海使を 派遣して国交を求めた。唐・新羅に挟まれ、加えて支配下の黒水靺鞨の反乱など内外の危機的状況から、「蕃国」高句麗の後継として朝貢形式を求める日本に妥 協し、朝貢使節として扱われることを容認し、渤海からの国書においても渤海の危機的状況に比例・反比例して日本の中華意識に迎合する文言が増減することに なる。日本側は渤海を「蕃国」高句麗の再来としてその朝貢を歓迎すると共に、新羅との対抗関係から、渤海との通交をきわめて重視し、遣渤海使を 派遣した。日本は新羅同様、渤海に対しても臣称・上表形式(臣下と称して、君主に文書を奉るという形式)の国書を送ることを求めた。渤海は新羅と違って国 書自体は日本に送ったが、その形式は「啓」というものであった。この「啓」は特殊な性質を持っており、唐六典一左右司郎中員外郎条や司馬氏書儀などの中国 の書物によれば官庁の長官に官人が上申する時に用いられる形式だが、それ以外にも親族間における尊属・長属や婦人の夫に対するもの、尊属だけでなく卑属の 逝去を慰問する時、吉凶の挨拶や起居を通ずる場合、忠告・祝賀・謝礼・知人の推薦等、多岐に渡って用いられた。本来、啓とは部下が同一官庁の長官に上申す る文書であったが、司馬氏書儀や文苑英華の実例からみるとそれに限らず、ひろく対等な一般官人間や私人間(友人間)の文章にも用いられた。そのため「啓」 は「私書」「家書」に分類され、「公文に施す所に非ず」、即ち、個人的な通信に用いられるもので国家間の公式なやり取りにふさわしくないものとされた。個 人間の通信に用いる「啓」を国家間の公式文書に用いたのは渤海がアジアで初めてである。啓は国書に用いられる形式ではないが、個人間の起居を問う書信文で あるから、国書の一般的な目的には合致しており、本来、上行文書であるから、相手国に対する丁重な態度を示すことになると考えられ、このような個人的な通 信文を国書に転用したのは渤海の知恵だったと考えられている。啓はこのように工夫されたものであったが、あくまで「臣称・上表」形式を求める日本側はこれ を度々批判したが、渤海は一貫して「臣称・上表」形式の国書を送ることはなかった。結局、日本側も啓を「慣例」として認めることとなった。例外的に渤海が 上表形式の国書を送った記事が続日本紀に記載されているが、記事は宝亀年間にのみ集中しており、渤海からの啓を上表と見做したのではないかと考えられてい る。唐との関係が改善されると、渤海使の軍事的役割は低下し交易の比重が重くなり、来日の頻度も増えていった。平安時代初期には完全に変質したものとな り、824年には右大臣藤原緒嗣が「渤海使は商人であるので、今後は外交使節として扱わないように」と言うほどのものとなった。 一方、日本から渤海に送られた国書は天皇からの慰労詔書形式であるが、その書き出しは一貫して「天皇敬問渤海国王」あるいは「天皇敬問渤海郡王」であった (これは新羅に対しても同様である)。この書式は中国に倣ったもので、中国では対等国ないし特別に尊重すべき相手国に出す書式であった。日本として渤海や 新羅を臣属国としようとしたのは、あくまで日本側の考えであって、日本の思惑通りにはいかなかった(因みに国家間の臣属関係は官職の授与による「冊封」を 通じて初めて成立するもので、日本と新羅・渤海間に冊封関係は成立しなかった)。そのような関係がおのずから丁重な形式の採用になった。

せんとくんも待っている!

日本の都の原点がある・・