対外関係 その2

隼人と南島

九州南部には、地下式横穴墓・地下式板石積石室墓・土壙墓などの独特な墓制が維持された地域であり、この地域の人々は古くは熊襲、7世紀後半ごろからは隼人と呼ばれるようになる。5世紀末ごろから徐々に大和政権の影響が浸透していたが、大宝律令が施行された時点でも依然として律令制的支配の及ばない地域だった。699年に三野城・稲積城が築かれ、律令国家は軍事力を背景とした支配を進めはじめる。709年には隼人の朝貢制度が始まり、朝廷において蝦夷とともに異民族たる「夷狄」が服属していることを示す。国家の儀礼において重要な役割を与えられた。しかし支配への抵抗も強く、特に720年には7年前に新設された大隅国の国守陽侯麻呂が殺害される事件が起こった。これに対して律令政府は大伴旅人を大将軍として大規模な軍を派遣後、翌年までかかって鎮圧した。その結果722年にははじめて造籍が行われ、以後隼人の組織的な抵抗はなくなった。ただ奈良時代における隼人はあくまで朝貢の対象であり、大隅・薩摩の両国に班田が行われるのは、平安時代に入った800年(延暦19年)のことである。

一方今の南西諸島からは、すでに7世紀の前半から使者が大和政権に「朝貢」するようになっていたが、698年には覓国使が南島に派遣され、翌年多褹(種子島)、夜久(屋久島)、菴美(奄美大島)、度感(トカラ列島または徳之島)が朝貢に訪れ、702年には行政組織としての多禰島が設置された。南島からは工芸品の材料となる夜光貝や赤木といった特産物がもたらされ、また南島へは鉄器がもたらされた。大宰府跡からは「掩美嶋」(奄美大島)・「伊藍嶋」(沖永良部島か)と書かれた木簡が出土しており、また奄美大島奄美市の小湊・フワガネク遺跡から夜光貝による貝匙製作跡が見つかっている。9世紀になると「国なくして敵なく、損ありて益なし」といわれたように律令国家の関心は薄くなっていった。

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蝦夷

歴史上、蝦夷と呼ばれる人々がどのような人々であったのかはいまだにさまざまな論があるが、何であれ中華思想に基づいた律令国家にとっては、「自らの支配下の外側にある人々という概念」でしかなかった。7世紀半ばに阿倍比羅夫らが遠征。現在の秋田や津軽地方、さらにその北方に至ったとされるが、8世紀初頭に律令国家に安定的に組み込まれていたのは、今の山形県庄内地方や宮城県中部以南までであった。当時は城や柵(城柵官衙と呼ばれる施設)が作られ、その周囲に柵戸(きのへ)と呼ばれる民が関東や北陸地方から移民させられて耕作に当たっていた。郡山遺跡(宮城県仙台市)は当時の中心的な官衙であったとみられている。平城遷都の前後から政府は急速な拡大政策をとる。708年には越後国に出羽郡をおき、712年には出羽国とした。また東海・東山道諸国の民を城柵に移す。農耕や防衛に当たらせた。これに対して蝦夷は709年および720年に反乱を起こすと、720年の時には陸奥按察使上毛野広人が殺害される事態となった。政府は大軍を発してこれを鎮圧、新たに郡と柵、さらにこれらを統括する施設として多賀城を建設した。一方日本海側では733年に出羽柵が現在の秋田市に移設された(後の秋田城)。

その後政府は蝦夷の首長を郡司に任命して部族集団の間接的な支配を行い、また個別に服属してきた者は俘囚として諸国に移民させられたりした。こうして東北地方南部は徐々に律令制の内部に組み込まれていくが、東北地方北部以北は依然として律令国家の支配外であった。しかし文化・経済の交流は続き、擦文文化には出羽地方の古墳の影響を受けた末期古墳が築造され、また恵庭市では和同開珎も出土している。

藤原仲麻呂政権は対蝦夷政策も積極的に行った。757年(天平宝字元年)に仲麻呂の子朝狩が陸奥守となり、新たに勢力外だった土地に桃生城および雄勝城を建設した。また762年多賀城を改修し、蝦夷への饗給(きょうごう)を行うにふさわしい壮大な施設へと変えた。774年(宝亀5年)には桃生城が蝦夷に攻撃されて放棄され、780年(宝亀11年)には伊治呰麻呂が陸奥按察使紀広純を殺害し多賀城を焼き払うという事態に至り、これ以降三十八年戦争と いわれる果てしない戦いへと突入する。戦いは奈良時代の間には決着がつかず、坂上田村麻呂の登場によりようやく終息する。後に藤原緒嗣により「今天下の苦 しむところは軍事と造作なり」と指弾されることとなる対蝦夷戦争は、「天皇の政治的権威の強化に大きな役割を担っていた」のである。

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政争と皇権の動揺

長屋王の変と光明子立后

この時代の初め、中臣鎌足の息子藤原不比等があらわれて政権をにぎり、律令制度の確立に力を尽くすとともに、皇室に接近して藤原氏発展の基礎をかためた。不比等死後に政権を担当したのは、高市皇子の子で天武天皇の孫にあたる長屋王であった。彼は右大臣に昇って権勢を誇ったが、その前後から負担に苦しむ農民の浮浪や逃亡がふえ、社会不安が表面化したため、政府は財源確保のため723年(養老7年)には、三世一身法を施行して開墾を奨励した。不比等の娘藤原宮子を母とする聖武天皇が724年(神亀元年)ころから、不比等の子武智麻呂、房前、宇合、麻呂の藤原四兄弟が政界に進出した。729年(神亀6年)、左大臣にのぼった長屋王に対し藤原四兄弟は「左道によって国政を傾ける」と讒訴して、自殺に追いこみ(長屋王の変)、政権を手にした。変の直後、藤原氏は不比等の娘光明子を、臣下で最初の皇后(光明皇后)に立てることに成功した。

橘諸兄政権と聖武天皇

その藤原四兄弟が737年(天平9年)に天然痘の流行で相次いで死亡すると、皇族出身の橘諸兄が下道真備(のちの吉備真備)や僧玄昉を参画させて政権を担った。これを不満とした宇合の長男藤原広嗣は、740年(天平12年)、真備らを除くことを名目に、九州で挙兵したが、敗死した(藤原広嗣の乱)。 この反乱による中央の動揺ははなはだしく、聖武天皇は、山背の恭仁、摂津の難波、近江の紫香楽と転々と都をうつした。相次ぐ遷都による造営工事もあって人 心はさらに動揺し、そのうえ疫病や天災もつづいたので社会不安はいっそう高まった。かねてより厚く仏教を信仰していた聖武天皇は鎮護国家の思想により、社会の動揺をしずめようと考え、741年(天平13年)に国分寺建立の詔、743年(天平15年)には盧舎那大仏造立の詔を発した。これにより東大寺大仏がつくられ、752年(天平勝宝4年)に完成、女帝孝謙天皇・聖武太上天皇臨席のもと、盛大な開眼供養がおこなわれた。

仲麻呂政権の消長

この間に光明皇后の信任を得た藤原南家の藤原仲麻呂(武智麻呂の子)が台頭、紫微中台を組織して755年(天平勝宝7年)には橘諸兄から実権を奪い、757年(天平宝字元年)には諸兄の子橘奈良麻呂も排除した(橘奈良麻呂の乱)。仲麻呂は独裁的な権力を手中に、傀儡(かいらい)として淳仁天皇を擁立。みずからを唐風に恵美押勝と改名すると、儒教を基本とする中国風の政治を推進したが、今度は孝謙上皇の寵愛を得た僧道鏡が頭角を現す。押勝はこれを除くために764年(天平宝字8年)に反乱を起こして敗死した(藤原仲麻呂の乱)。これにより、淳仁天皇は廃され、淡路に流された。

宇佐八幡宮神託事件と光仁天皇

道鏡は、やがて765年(天平神護元年)には太政大臣禅師、翌766年(天平神護2年)には法王となり、一族や腹心の僧を高官に登用して権勢をふるい、西大寺の造立や百万塔の造立など、仏教による政権安定をはかろうとした。称徳天皇(孝謙上皇が復位)と道鏡は宇佐八幡宮に神託がくだったとして、道鏡を皇位継承者に擁立しようとしたが、藤原百川や和気清麻呂に阻まれ、770年(宝亀元年)の称徳天皇の没後に失脚した(宇佐八幡宮神託事件)。これに代わり、光仁天皇を擁立した藤原北家の藤原永手や藤原式家の藤原良継・百川らが躍進した。光仁天皇はこれまでの天武天皇の血統ではなく、天智天皇の子孫であった。光仁天皇は、官人の人員を削減するなど財政緊縮につとめ、国司や郡司の監督をきびしくして、地方政治の粛正をはかった。しかし、780年(宝亀11年)には陸奥国で伊治呰麻呂の反乱がおこるなど、東北地方では蝦夷の抵抗が強まった。

長岡京から平安京へ

784年(延暦3年)強まってきた寺社勢力からの脱却のため、桓武天皇が山背国長岡の地に新たな都(長岡京)を造成したが、工事責任者の藤原種継が暗殺され、桓武天皇の弟早良親王が捕まる事態となって、794年(延暦13年)新しい都城を造成し、山背国を山城国と改め、新京を平安京と名づけて遷都した。この遷都をもって、奈良時代と呼称される時代は完全に終焉を遂げ、平安時代がはじまる。

せんとくんも待っている!

日本の都の原点がある・・